今月中旬からAmeba Ownedへと母体を変えて、音楽に関することに絞ってリスタートさせた当ブログ。
おかげさまで、自分に直接関わりのある方以外にもそれなりに読んでいただけているようで、なによりです。せっかくこういう公の場に公開させているものですから、まったく読まれている雰囲気がないというのも、やはり悲しいものであったりはするので。
ここ数日でいうと、小沢健二氏(オザケン)のカバー絡みでこのブログに至った方が多いようです。近ごろは、小沢氏のかつてのヒットソングが複数、ボーカルがかわいらしい女性の声に変わってTVのCMで流れていたりするので、いろいろと情報を求めている人たちが一定数いるのでしょう。
極々個人的な実感としては、小沢氏の曲のカバーたちを聴いて心を動かされたことは、ほぼほぼないというのが正直なところではあります。彼の楽曲や歌詞の良さを再認識することはあっても、その曲が本来放っていた魅力を超えたカバーに出会った、という実感はあまり沸いてこないので。
とはいえ、こうして彼のカバーがこうもボコボコ連発されるからには、当然意味があるわけであって、例えば、
・そもそも小沢健二の曲がオーバーグラウンドで通用するものであった。
・小沢健二のことが好きな(もしくは好きだった)人たちが、CMの楽曲を決める決定権を持つ役職や地位に登りつめた。
・まったくリアルタイムで小沢健二を知らない人たちが、彼の音楽に出会うことによって再評価された。
・ノルタルジーとして、今、小沢健二が求められている。
とかなんとか、なんとなーくその要因を妄想したりしているのはものすごーく楽しいことだったりもします。
そういえば「この街の 大衆音楽の一部であることを、誇りに思います。」と、公な場での復活後のツアーの中で語っていた小沢氏。当事者である彼自身もいろいろ思うところはあるようで、氏のサイトでも近頃のカバー祭りに関する事柄が綴られているので、まだチェックされていない方はぜひ読まれるといいでしょう。→ http://hihumiyo.net
でね。
それこそフリッパーズ・ギターの頃から、小沢氏の音楽を聴き続けていた人にしては、淡々とここまで綴っているわけですが。
どうにも氏の楽曲を使用したカバーに関して冷ややかなその要因というのは、やはり今年彼が行ったツアー「魔法的」で歌われた新曲たちが、ものすごーく今もなお脳裏と耳にこびりついて離れないからなんですよ。きっと。
広く浅く聴かれていく「いわゆる大衆音楽」にも"良さ"と"意味"は当然あるんだけど、その地点を超えたところで聴かれるべき輝く歌や曲がある。
だからそのような曲を実際に(しかもライブで)目の当たりにしてしまうと、やっぱり「模倣的」なだけの曲ではなかなか心が動かされにくいというか、ね。
朝早くから、眠い目こすりながらこういうことを書いているから、決して音楽に対して、単なる不感症ってわけではないはず。音楽に対して、俯瞰症な傾向はあるかもしれないけれど。
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